山田塗装のあゆみ

Yamada TOSO history

第二章

発展期

現在も酒田市に社屋を構える山形本社

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東北を代表する塗装会社へと成長

法人化をきっかけに、創業者は新しい感覚で
あらゆることに取り組もうと決めました。
総合的に工事を請け負うため、塗装だけでなく、
土木、建築、とび、土工、石工、鋼構造物、舗装、造園、
水道施設にも携わるようになったのはこのころです。
加えて、北海道に引き続き、
昭和43(1968)年には新潟県新潟市、
昭和45(1970)年には宮城県仙台市、
昭和47(1972)年には東京都西日暮里、
秋田県秋田市に営業所を開設。
わずか数年で県外に5営業所を設ける急成長ぶりに、業界から一目置かれる存在となりました。
それだけに次々と依頼が入り、創業者をはじめ、
社員や職人たちも現場からそのまま次の現場へ出向くことが
珍しくありませんでした。
時には1か月も自宅に戻れないこともあり、
そんな多忙を極める日々が続きました。

ホテルヤマダ上棟式の様子

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ホテル業参入で
酒田市の観光業に貢献

昭和48(1973)年、第一次石油危機により、
日本経済は戦後の高度成長を終え、低成長時代に入りました。
社会が激震で揺れていた一方、山形県では米沢市白布温泉と福島県を結ぶ
「西吾妻スカイバレー」、山形県と秋田県をまたがる
「鳥海ブルーライン」の開通、最上川にかかる
「猿羽根大橋」の完成と、明るいニュースであふれていました。
そして、昭和45(1970)年ごろから望む声があがっていた
空港建設が実現したら、より多くの人流が山形県に
もたらされると考えた創業者は、ホテル業への参入を決断。
土地の購入からオープンまでわずか9か月というスピード開業でした。
客室はオープンと同時にすぐさま予約で埋まり、
これを見た他社が後に続き、酒田市は空前の
ホテル建設ラッシュで沸きました。
近代的なホテルがいくつもつくられ、
酒田市の観光業に貢献したことは言うまでもありません。

Yamada TOSO trivia

超大型ラインマーカー車の開発

道路の白線引きの効率化を図り、創業者は
「超大型ラインマーカー車」を開発しました。
通常のラインマーカー車は、塗料缶が5~6本(1~1.2t)しか積載できず、
約4~5kmを施工したら補充しなければなりません。
しかし、超大型ラインマーカー車はなんと10t。一度に35~60kmの
白線引きが可能になり、東北自動車道、関越自動車道などで大活躍しました。