山田塗装のあゆみ

Yamada TOSO history

第三章

転換期

北海道雨竜郡沼田町にかかる五ケ山橋

Turning point01

道路の白線引きから
鋼橋塗装へとシフト

弊社のメイン事業だった道路の区画線工事は、
全国各地の国道や高速道路、さらには都道府県道、
市町村道の舗装整備が行き渡ることで、
受注数が減少していきました。
加えて、平成2(1990)年に施行された
「スパイクタイヤ粉じんの発生の防止に関する法律」により
スタッドレスタイヤが普及し、金属のピンで路面を
傷つけにくくなったことで区画線の補修工事も減っていきました。
このような時代が来ることを感じていた創業者は、
昭和30(1955)年にすでに鋼橋塗装部を設け、
鋼橋塗装に進出。地道に実績を積み上げ、
平成期に入るとともに、主力事業を鋼橋塗装へと
シフトしていきました。平成14(2002)年には、
雨竜郡沼田町の幌新太刀別川(ほろにいたちべつがわ)に架かる
「五ヶ山橋(ごかやまばし)」の塗装を担当し、
約4万㎡を施工するなど、鋼橋塗装の分野でもその存在を
示していきました。

山田塗装株式会社の創業者 山田進

Turning point02

創業者・山田進の引退

山形県鶴岡市由良の八乙女荘(現 ホテル八乙女)で行なわれた
弊社の永年勤続者表彰式にて、創業者・山田進は引退を表明しました。
創業50年を2年後に控えた、平成9(1997)年4月5日のことです。
創業者は、もともと虚弱体質だった上に、
高血圧によるとみられる頭痛に悩まされていました。
その治療のための長い通院生活の中で、70年にわたる自身の人生や、
50年を迎える会社のことを考え続けたと言います。
健康に不安を抱えながら、社員たちを守れるか。
後継者も決めないまま、倒れてしまったら会社はどうなるか。
万が一、そうなってしまってからでは遅い。
身を引くならいまだ──。
会社やそこで働き続ける社員たちをおもんぱかった末の決断でした。
普段は厳しい創業者でしたが、どんなときでも真っ先に考えるのは、
社員たちのことでした。

Yamada TOSO trivia

敬老の日に寄せて

会社だけでなく、日本の未来についても創業者は思いを馳せていました。
特に憂いていたのは、日本には高齢者が安心して長生きできる保証が
十分でなかったことです。そこで地元の高齢者福祉事業が
振興するきっかけにと、昭和51(1976)年から敬老の日に寄付を開始。
社員からの寄付も含め総額5815万7603円(2021年現在)となり、
平成2(1990)年には紺綬褒章を贈られました。